「同級生ネットワークの底力」---50歳記念旅行の記---

 このたびは昭和49年卒業生の学年便り寄稿の機会をいただき、ありがとうございます。最初に筆者の自己紹介をさせていただきます。昭和30年東京生まれ、東京育ちでしたが昭和45年(つまり中学3年生)の6月に父の仕事の関係で福山市立城北中学校に転校し、翌46年に誠之館に入学しました。当時、東京都立高校の入学試験はすでに複雑な学校群制度に移行しており、自分がどの高校を目指しているのかも分からぬまま内申書と英数国3教科の試験結果で競う、という受験生生活からの転校でした。ところが来てみると、公立の試験科目は理社はもちろん美術、体育などまで含む全9教科、目指すは当然志望校単願ということで、この環境変化を周囲は心配したようですが、当時からジェネラリスト(文武両道とも言う)を標榜していた私には実はラッキーでした。そして、たまたま両親が岡山県西部の出身で誠之館のことを転校前から聞かされていたり、転校先の城北中で3年生途中からの短い期間でしたが担任として薫陶を受けた先生が誠之館の先輩であったり(昭和32年卒の佐伯哲雄先生の若き日のこと)ということもあって、自然に誠之館に憧れ、目指すこととなったわけです。
 幸い、翌年4月には鷹の羽の徽章を襟に桜の坂道(当時はまだ植えられたばかりの若木でした)を登ることになりました。ちなみに、我々の学年は木之庄キャンパスへの移転から3年目、現在の誠之講堂で入学式をしていただいた最初の新入生とうかがっています。

 さて、こうして始まった誠之館での我が青春時代ですが、これを書き始めるといくら紙数があっても足りず収拾がつかないことになりそうですし、本稿の趣旨からも離れてしまうので、ここでは泣く泣く割愛。ただ、微分方程式や亀の甲に寝る間を奪われ、バスケットボールに日が暮れるのを忘れ、スカイラインをダッシュで駆け巡り、校内総体ではラグビーや水泳に燃え、他校の()女生徒の面影に悶々とする日もあったなあとだけ記しておきます。今にして振り返れば、やはり己の人生や人格形成にとってかけがえのない時期だったと思いますが、当時は毎日をただ一杯一杯で生きているだけという実感でした。

 光陰矢のごとし。勉学に(一応言うとかんとね)、またクラスメートやチームメート達との交遊にいそしんだ3年もあっという間に過ぎて、昭和49年3月卒業。残念ながら1浪することになりましたが、実は前年、3年生に進級する春に父が再び転勤となり、家族はすでに東京に移っていたため、私も卒業と同時に東京へ戻ることになります。その後東京の大学に通い、就職先も東京だったため、高校卒業後再び福山を訪れる機会は、結局クラス会などの際に1、2度あったかどうかということになりました。
 当時、誠之館の卒業生は関西方面の大学に進学する者が多く、次いで関東、それから全国各地や地元広島県内という状況でした。大学では、同郷出身の友人とも会って遊んだりしつつ、徐々に新しい交友関係も広がっていきます。さらに社会人となり生活や人間関係の拠点もより広がって、その結果福山からはまた一歩一歩離れ、いつの間にか旧友達と会うことはなくなり、それでも何人かとは細々と年賀状の交換を続けているだけ、という具合になるのは、これもその時その時の自分にはただ目の前にあるごく当たり前な現実でした。そうして30年近い年月が過ぎます。

 大きな変化が訪れたのは、我々昭和49年卒業生が中心になって開催した平成14年5月の同窓会定時総会と、同じ年11月の東京同窓会でした。前年の夏頃から、協力を呼びかけたりこれに呼応したりの電子メールが舞い込み始めたのです。とうに記憶の彼方に置き忘れていた懐かしい名前を付したメッセージが、目の前を飛び交っているではないですか。これからひとつの大事業を一緒にやり遂げようと立ち上がりつつある同級生達の姿が目に浮かんできます(当然皆18歳の顔かたちをしていますが)。思わず私も「再びつながった縁にこだわってみたい。」とかなんとか、感激してメールを発信したものでした。その瞬間が、私がこのネットワークの一員となった瞬間だったのだと思います。
 同窓会そのものは、5月の福山も11月の東京もそれぞれに大成功だったと思います。そして何より、福山の時には100人、東京でも50人余りの同級生が、それこそ西からも東からも外国からも集まってひとつの事業の成功に向かって集中している姿は、とても感動的なものだったと思います。

 さて、長くなりましたがここまでは前置きでした。いよいよ本題。大学を卒業して一旦全国に散った我々ですが、いつか家業を継いだり家庭に入ったりという形で、今は福山あるいはその付近に戻って生活している者も大勢います。4年前の同窓会を成功に導いた実行委員会の母体となったネットワークです。そして今も関東はじめ各地に生活する同級生達が、時々戻っていく場所でもあります。特に私のように、地元に家族や親戚があるわけでもなく、一度は忘れ去りかけてさえいた者にとっては、普段は会えないわけですが、彼らが地元にいてくれるという事実だけが「誠之館昭和49年卒業生アイデンティティ」の拠り所となるわけです。
 一方、関東にも約60人の同期達が住んでいます。やはりあの東京同窓会を契機に交流が復活し、その後毎年の東京同窓会はもちろん、新年会、日帰りや1泊程度の小旅行、時には外国在の同期を訪ねて海外旅行を敢行したり、また作戦会議と称しての飲み会は不定期かつ頻繁にと、いろいろな形で集まるようになりました。誰かが、例えば「山へ行こう」と声を上げると、他の誰かが反応し、何人かで企画を形にし、関東同期会の全員に案内を出すこともあればホームページに掲示するだけということもありますが、行ける、行きたいという者が手を上げてくる。もちろん全員がいつもというわけではなく、東京同窓会の実行委員会で大活躍した後に顔を見せなくなってしまった者、いつも全く反応の無い者、イベントには一度も参加したことがなくても案内にはコメントを入れて返信してくる者など、いろいろです。そして時には20人が集まったり、時には3人だったりですが、ここにもひとつのネットワークが出来上がりました。
 思えばネットワークとは、情報や意思を発信する人が複数いて、その発信する人同士がまた反応し合って(それは共感の呼応だけでなく、反発や、疑問や、いろいろな反応が包含されるものですが、それらがあって)初めて成立するものです。母体となってくれた福山の同級生ネットワークもおそらく初めからそこにあったわけではなくて、何人もの同期達の積極的な関与があって形作られてきたものだと思います。遠く離れた東京でも、そのようにしてかけがえのないネットワークを持つことができました。

 昨年、そんなネットワークの底力を感じさせる出来事がありました。これまでも、福山での催しに各地の同期が参加したり、東京での企画に福山から何人か参加したりということは時々ありましたが、いっぺん全国区のイベントをやりたいなと。それも、福山でも東京でもないところでやりたいな、と。構想が持ち上がったのは平成16年の秋の頃だったとか。福山の同期達の飲み会の席で誰かが「50歳記念旅行」を口にし、酔った勢いで「しょうやぁ」てなことになったとは、後で聞いたことです。もちろん酒の上の話のこととて、実現に持っていくのはなかなかしんどかったと思いますが、その中には本気で背負い込んだ者もいて、事態は本当に動き出したわけです。そして、今度は合同の企画だから、ということで東京の同期にも早い段階から声がかかり、おかげ様で在東京組もこの1年は「50歳記念旅行」の話題で大いに沸いた次第。もちろん最初は半信半疑という向きもありましたが、「しょうやぁ」「やろう」の声が次々に聞こえ、海外からも参加表明が届く中で、企画は「平成17年11月、京都・滋賀で」と具体的になっていきました。そして11月12日(土)、13日(日)の2日間、57人の同級生達が琵琶湖畔に集合して卒業から32年目の修学旅行を楽しんだのでした。

 さて、実は本稿は、この旅行の様子を紹介せぇ言うことで、在福山の某君から在東京の私が依頼される形で書き始めたわけですが、肝心の旅行の話しに入らないうちに約束の紙数を何倍も超過してしまいました。もしご関心のある方がいらっしゃいましたら「誠之館49ers」のホームページ(http://members.jcom.home.ne.jp/s49ers/)に掲載してありますのでのぞいて見てください。「イベント報告」→「2006年度」でご覧いただけます。このホームページは、元々は東京近辺にいる同期のWebサイトとして作ったものなので、関東の話題が中心ですが、今回の旅行のことは写真入りでしっかり報告してあります。

 たかが1学年のことに大事な紙面を長々とお借りしてしまい、申しわけありませんでした。今こんな与太話を書いていられるのも、歴代の先輩達が同窓会運営のバトンを連綿と引継いできてくださったお陰と感謝しております。そして、こんな一喜一憂に付き合ってくれる同級生達に感謝しつつ、筆を置くことにします。

平成18年5月
昭和49年卒業生  三宅明人(みやけあきと)